「アニメこそが私の義務教育であり、人生の教科書である」――。

そう豪語していた私の人生は、ある意味で非常に模範的なオタク人生だったなと振り返っています。大人になってもその信念は揺るぎなく、血を吐くような思いで捻り出した僅かな自由時間こそが、私が意のままに使える時間だったのです。

​しかし、その時間を守りたいという防衛本能が、私を狂わせたのです。

​選択眼を捨てタイムラインの奴隷と化す

​「ハズレを引きたくないよ。1分1秒も無駄にしたくないよ!」

そんな強迫観念に駆られた私は、いつしかSNSに生息するインフルエンサーたちの「全人類見ろ!」「控えめに言って神作」というなんの捻りもない、IQの低い、言葉に踊らされるようになりました。

​私は「いいね数」という名の集団心理を信奉し、自分で選ぶという「主体性」をゴミ箱にポイ捨てちゃった結果、私は「トレンドだけを追い求めるシカバネちゃん」へと成り下がったのです。

​2019年、1800円で味わう「絶望」

​それは、SNSで絶賛の嵐が吹き荒れていた、とある劇場版アニメを観に行った時のことです。

私はなけなしの小遣いを握りしめ、「この値段ならあの欲しかった同人誌の総集編かえたのにな」と脳裏をよぎる雑念を振り払い、1800円のチケットと、原価を疑いたくなるほど高価なポップコーンを購入しました。

​期待で胸を膨らませ、いざ着席。しかし、スクリーンに映し出されたのは地獄でした。

  • ​どこかの名作を雑に切り貼りしたような安い脚本
  • ​「どうせこういうのが好きなんやろ?」と言わんばかりのあざとすぎる演出
  • ​往年のファンを心底馬鹿にしたような手抜き描写

その場にいた誰もが、ここまでがっかりさせられる筋合いはないという気持ちでいっぱいだったことでしょう。

 

あんまり当時の様子を詳しく描きすぎると、その正体を暴いてしまうことになります。ですので悪い評価はこのあたりで

 

その日失ったのは1800円と、貴重な休日のひととき。それらを同時に失った時の私の気持ちを想像してみてください。そんなものでは済まされません。

「他人の言葉を鵜呑みにして、期待に胸を躍らせた自分自身への猛烈な嫌悪感」に打ちのめされることになったのです。あの時の虚無感たるや、靴の中に小石が紛れ込んだ時の不快感の100倍はありました。

​この事件を機に、私の「アニメ愛」は急速に冷えきり。新作のPVを見ても「どうせまた詐欺だろ…」と疑心暗鬼になり、アニメそのものから卒業(という名の引退)を考えるほどに追い詰められていました。

し か し で す

今の私は、かつての絶望が嘘のように、毎日ディスプレイの前で瞳を輝かせている。それぐらい回復したんだ。私はあることがきっかけで変わることができたのだ。

 

​救世主は、食堂へ向かう道すがら現れた

 

そんな「アニメの抜け殻」状態だった2019年12月。

私を変えてくれたのは、当時同じ大学に通っていたとある友人だった。彼もまた同じアニメファンである。

冬休みを控えて浮き足立つキャンパスで、私は同じくアニメ好きの友人に捕まりました。私はまるで、藁をも掴む思いでカウンセリングを受ける患者のように、胸中の苦しみをぶちまけました。

​すると彼は、悟りを開いた賢者のような顔でこう言ったのです。

「作品は、『監督』と『脚本家』で選ぶべし」

前回の私とおんなじことを言ってますね。

​彼の持論はこうでした。

「脚本家の構成のクセや、監督が刻む演出のテンポは、作品が変わってもDNAのように引き継がれる。『この人の演出というかリズム感、好きだな』という直感は、SNSの10万いいねよりも裏切らない。

​まずはクリエイターで絞り込み、次に自分の好きなジャンルというフィルターを通して、作品を厳選していこう。

 

この二重のフィルターこそが、地雷作品を回避する最強の探知システムだったのです。

​私の瞳は、再び輝きを取り戻した

​この「効率的かつ、極めて正確な」探し方に辿り着けたのは、まさに幸運でした。

今ではSNSの喧騒に惑わされることもありません。自分の信頼するクリエイターを信じて選んだ作品は、どれも私の琴線を見事に掻き鳴らしてくれます。

​かつて絶望に沈んでいたのが嘘のように、今の私は毎日ディスプレイの前で、純粋な子供のようなキラキラした瞳でアニメを謳歌しています。

​人生の嫌なことすべてを吹き飛ばすほどの熱狂。それを取り戻してくれたのは、SNSの誰かではなく、確かな技術を持つクリエイターへの信頼だったのでした。